2006/12
杉田玄白幾つかの疑問君川治 18



杉田玄白、前野良沢、中川淳庵などが見た腑分けは幕府小塚原刑場で行われた。この場所は常磐線南千住駅西側であり、回向院と延命寺が残っているが、その他は線路や道路になってしまった。回向院に日本医学会・日本医師会が創った観臓記念碑(写真)がある。
 江戸時代の科学技術といえば和算と蘭学、和算は関孝和、蘭学は杉田玄白が出てくるのが定番と思う。今回はその杉田玄白にスポットライトを当ててみたい。
 杉田玄白については日本史で習うほかに、我々の世代には国語の教科書に「蘭学事始」が出てきたような記憶がある。「解体新書」と「蘭学事始」があまりにも有名で、岩波文庫を始めとして文庫版・新書版・現代語訳など今もさまざまな形で読むことができる。
 杉田玄白は小浜藩の侍医であり、杉田家3代目の医師である。江戸の小浜藩屋敷で生まれ、子供のころに小浜に住んだこともあるが、ほとんどは江戸詰である。晩年に書いた「蘭学事始」は先ず名前が良いのと、福沢諭吉により出版されたこともPR効果が大きい原因と思う。勿論、解体新書翻訳の原本「ターヘルアナトミア」の人体図が江戸小塚原での人体解剖と正確に一致していた驚き、3年もかかった翻訳の苦労話、オランダ書を翻訳出版して幕府のお咎めをうけないかとの心配など、読む者を大いに感動させる内容である。
 杉田玄白の功績の第一は解体新書を翻訳して出版したことであるが、これによって漢方に対するオランダ医学の地位を向上させ、更には蘭学普及の原動力を与えた点である。更に言えば、自身はオランダ語がほとんど判らないのに、翻訳プロジェクトリーダとして仲間作りをして、粘り強く事業を完成させるリーダシップも評価されよう。翻訳事業の仲間は前野良沢(中津藩)、中川淳庵(小浜藩)、桂川甫周(幕府奥医師)などみな江戸の蘭学医たちである。
 杉田玄白はこの成果により、自らの塾には蘭学を学ぶ弟子たちが全国から集まったこと、長崎のオランダ通詞たちは、話し言葉はできるが文字を読むのが得意でなく、従って「解体新書」は蘭書翻訳の始めであると高らかに書いている。
 「蘭学事始」は玄白が83才の時に完成した本で、玄白は2年後に85才の高齢で亡くなった。少し物忘れが始まっていたのではないか?などと言ったら失礼だろうか。実は下記に挙げるような幾つかの疑問点がある。
・ 杉田玄白の生まれたのは1733年である。蘭学は誰に習ったのだろうか。
・ 杉田玄白以前に蘭書の翻訳をした人はいなかったのか。
・ 人体解剖は杉田玄白が初めてなのか。
・ 杉田玄白の弟子にはどのような人がいるのか。
・ 長崎オランダ通詞は翻訳の仕事をしなかったのだろうか。
 これらの疑問を調べながら、次回は蘭学者の系譜や長崎遊学者たちに登場願うこととしたい。


筆者プロフィール
君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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